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御柱祭の氏子たち

Vol.3

任務を終えた御柱を倒し、
感謝とともに普通の木へと戻す御柱休め

諏訪市中洲中金子 岩波弘之さん
(諏訪市)

柱を曳行し建てる「御柱祭」。新しく建てられる柱にスポットが当てられがちですが、それまで 建っていた古い御柱はどうなるのでしょうか。諏訪市中洲の中⾦⼦地区では毎回、この古い御柱を倒し運び出して、普通の⽊に戻す役⽬を担っています。「御柱休め」、「古御柱祭」などと呼ばれるこの一連の神事はどのようなもので、どのような歴史があるのでしょうか。諏訪市中洲中⾦⼦地区の神社委員岩波弘之さんにお話を伺いました。

特別な神事を請け負う中金子地区

——御柱休めとはどういったものでしょうか。

岩波弘之(以下、岩波)

諏訪⼤社上社の御柱祭で、⼭出しと⾥曳きの間に前回の御柱を倒して、諏訪市中洲中 ⾦⼦にある⼋⽴(はちりゅう)神社まで曳行して、普通の⽊に戻す儀式です。
4⽉の⼭出しが終わると古い御柱を倒します。当日、本一(本宮一之柱:上社ではもっとも⼤きい柱)の前庭に使用する用具を並べお祓いをしたのち、幣拝殿の前に儀式に携わる人々もお祓いを受けてお神酒をいただいてから一連の作業をします。本宮の4本と前宮の4本の計8本御柱が建てられているので、それを倒して片づける作業です。 本一と本⼆(本宮⼆之御柱)だけは⼿作業。御柱の先に付いている御幣が折れたり、破損しないように気を遣いますね。倒した本宮の4本柱だけはお祓いをしてもらって、それらを地⾞に乗せて⼋⽴神社まで曳行。曳行中はみんな楽しみながらやるんです。(前宮の4本の御柱は倒して、御幣だけ持参)そして、八立神社前に安置します。

岩波弘之さん

岩波弘之(以下、岩波:

諏訪⼤社上社の御柱祭で、⼭出しと⾥曳きの間に前回の御柱を倒して、諏訪市中洲中 ⾦⼦にある⼋⽴(はちりゅう)神社まで曳行して、普通の⽊に戻す儀式です。
4⽉の⼭出しが終わると古い御柱を倒します。当日、本一(本宮一之柱:上社ではもっとも⼤きい柱)の前庭に使用する用具を並べお祓いをしたのち、幣拝殿の前に儀式に携わる人々もお祓いを受けてお神酒をいただいてから一連の作業をします。本宮の4本と前宮の4本の計8本御柱が建てられているので、それを倒して片づける作業です。 本一と本⼆(本宮⼆之御柱)だけは⼿作業。御柱の先に付いている御幣が折れたり、破損しないように気を遣いますね。倒した本宮の4本柱だけはお祓いをしてもらって、それらを地⾞に乗せて⼋⽴神社まで曳行。曳行中はみんな楽しみながらやるんです。(前宮の4本の御柱は倒して、御幣だけ持参)そして、八立神社前に安置します。

岩波弘之さん

6⽉には八立神社の宮司さんが諏訪大社の宮司さん他関係者の参列を得て御休めの神事を執り⾏います。ここまでが「御柱休め」といわれるものです。
それと、新御柱のための⽳を掘り整えることや、新しい御柱が建った翌⽇の「御柱固の儀」も中⾦⼦の⽒⼦の役割です。この新御柱に関わる作業までを含めた⼀連の作業を中⾦⼦では「古御柱祭」と呼んで、古くから⾏なっているというわけです。

——普通の木に戻った御柱はその後どうなるのですか?

岩波:

古御柱は6⽉19⽇に⼋⽴神社において御休めの神事を行うと普通の⽊に戻ります。最近ではこうした柱は払い下げられて、あちこちにもらわれていきます。
昔は地域で貴重な建材として再利⽤されていました。たとえば中⾦⼦には宮川が流れていて⼋⽴橋という橋がかかっていますが、昔はその橋の架け替えによく古御柱を使っていました。それ以外にも区の御蔵の材料や区内の橋の補修材として再利用されていたようです。
でも、昭和40年頃になると、⼩さな橋だって⽊でなくしっかりした材料を使うようになり、 その頃からは別の用途で欲しいという⼈に払い下げるようになりました。前回の本⼀ は諏訪市の姉妹都市である壱岐市に送られて、当地に建っています。本二は三井の森カントリークラブに、本三は茅野市の川越し公園のところに、本四は茅野市⽶沢にもらわれていきました。いろんなご縁ある方のところに払い下げられています。
⽳を掘った道具や作業に使った資材とかも、古御柱祭の直会(なおらい)時に競りで払い下げます。消耗品的物品は保存場所の関係や劣化もあるので毎回処分することになっています。
そうした払い下げのお⾦は次回の古御柱祭の資⾦になるわけです。また道具を買ったり、曳行時には⽒⼦に提供するパンや飲みものを買ったりするので、それでもかなりの経費が区からの持ち出しになるようです。

お役目を終え、払い下げられたかつての御柱。
その後もさまざまな場所で大事にされています

——今回(令和4年/2022年)はコロナ禍を受け、コロナ対策と伝統の間での葛藤や議論などもあったのではないでしょうか。

岩波:

まだコロナ禍の状況でまだ解りませんが、感染警戒レベル4以上になってしまったら、曳行方法や氏子の参加数の制限で従来の方法とは全く違う形態になる可能性があります。
通常の曳行ができた場合でも、通常は前宮の建御柱は本宮の前⽇に終了するのですが、今回の御柱祭では密を避けるため、上社では本宮と前宮の建御柱を同時進行で同じ⽇にして人流を分散することになるようです。従って、建御柱の儀に関わる中⾦⼦の建御柱の係は2グループ作る必要が生じました。大変ですが非常時なので仕⽅ないことだと思います。

例年の古御柱祭の様子。

戦国時代の混乱のなかで生まれた
中金子のお役目

——いつ頃から現在の様式ができあがっていったのでしょうか。地区や上社・下社で様式の違いはあるのでしょうか。

岩波:

いつ頃からというのは、誰に聞いても「古くから」と答えるばかりで具体的な発生時期は解らなかった。いろいろときっかけがあって調べはじめてみると戦国時代(武田氏統治の時代)には茅野市⽟川の神之原地区の⽅たちが御柱休めをやっていたようです。
その頃の諏訪は武田信玄が諏訪領に攻め入り諏訪頼重が甲府の東光寺で自刃させられた以降、諏訪氏に繋がる頼重の叔父の頼満や従兄弟の頼豊が跡を継いで武⽥家に仕えることになっていたようです。
戦国時代以降、乱世で諏訪神社の祭事は廃れていたようですが、1560年(永禄3年)武⽥信⽞が式年造営御柱祭をきちんとやるようにと指令を出しています。これは諏訪信仰を利⽤して安定統治を目的としたといわれています。それを受けて再興に尽⼒したのが頼豊らだったというわけです。頼豊は当時、現在の茅野市⽟川にあった粟沢城を拠点としており、また弟の頼忠が大祝だった事情もあって、同じ近隣の神之原村に指示して、山作りや御柱休めをやるようになったようです。下社では上社の様な御柱休めの形態の様式はないようです。

——もともとは神之原の人たちの役割だったのですね。

岩波:

その後 1582 年(天正10年)に織⽥信⻑の武田攻めが始まり、3月には諏訪に攻め入ってきた。頼豊の家来は織⽥⽅が強いから 織⽥方についた⽅がよいと注進したけれど頼豊は聞かなくて、3月3日に宮川の大曲の戦いで敗れ打ち取られて金乗院に葬られた。武田勝頼も3月11日に天目山で滅びました。それで終わりかと思ったら、3か月後の6⽉2日に本能寺の変があって信⻑が死に、信⻑を討ち取った明智光秀も6月13日に⽻柴秀吉に滅ぼされ、諏訪は再び空白地帯となった。
そのとき頼豊の弟の頼忠が諏訪神社の⼤祝(諏訪明神の依り代として諏訪信仰の頂点に位置する現⼈神)として生き残っていて、その混乱に乗じて蜂起して諏訪を掌握した。今度はその間隙を目指し北条と徳川が信濃に侵入、諏訪の地で陣取り合戦が始まってしまった。頼忠は当初優勢であった北条⽅についたが甲斐で北条が思わぬ敗北をして、それを潮⽬に徳川の⽅が優勢となり10⽉には北条、徳川の双方が和睦して、12月最終的に頼忠は徳川方についた。翌年3⽉には頼忠が徳川家康から諏訪の地を安堵されました。
わずか1年の間の出来事で、これは「天正壬午の乱」と後世に言われています。
天正12年(1584)頼忠はこれまでの頼豊の本拠地の粟沢でなく、現在の中洲の下金子村の地に宮川の曲がりを利用しての金子城を本拠地として築城することなり多くの有力家臣たちが、神之原村から中金子村、福島村に移り住むようになった。この地への築城の意図は未だ不明です。

下金子地区に残る金子城跡

岩波:

天正18年(1590)家康の関東に転封に従い頼忠も武蔵野国奈良梨に転封され、代わりに秀吉の家来の日根野高吉が入れ替わりとなり、現在の高島城の築城へと繋がりました。
神之原村にあった小泉寺は有力な檀家が転居したことにより、廃寺になりそうになったため、その後中金子村に移っています。そのため、本来この地に縁のない名称の小泉寺が現在に至ることとなった。なお、八十八夜で有名な茅野市の粟澤観音は現在でも小泉寺が検校しています。
このような事情で多くの有力者が神之原村から中⾦⼦村に転居したため、天正12年(1584)の御柱祭から神之原村が担っていた御柱の儀式のうち山作り関係を除き、御柱休めの儀式が古御柱祭として中⾦⼦村が引き継ぐこととなったものと思われます。
その後諏訪に所領が戻った頼忠の嫡子頼水が慶長19年(1614)に「信州諏方御頭帳」で諏訪の郷村を14組に分けて務める新しい御頭郷の制度を定めたがその10組に「親郷中金子、枝郷下金子、神之原」とある。当時諏訪には78の郷村があった中での組み合わせであるので当時は中金子と神之原の関係は単なる偶然でなく、必然の組み合わせだったと考えられます。

「古くから」以上は
知られていなかった歴史

——本当に長い歴史があるのですね。

岩波:

でも、古御柱祭っていうのを中⾦⼦で⻑い間やってきというのは皆さん承知していたけれど、どのような理由で具体的にいつからというのは誰も知らなかったのです。建御柱のときも、神之原の⽅たちが冠落とし(建てる位置まで引きつけた柱の頭を三⾓錐に切り落とすこと)を⾏って、その後御柱が建ったら中⾦⼦の⽒⼦の建御柱の儀のお役⽬がある。
この儀式の流れも中⾦⼦と神之原がセットで執り行われる。
中⾦⼦と神之原は距離も離れているのに、なぜこの2地区がセットなのか誰もわかっていなかった。
調べようにも、御柱祭はあくまで⽒⼦の祭りなので上社には何の記録も残っていないですしね。

さっきお話ししたような歴史的経緯も重ね合わせて検証した結果、最近になってようやく解りました。平成9年に中⾦⼦区の土蔵の⽕事騒ぎがあって、そのときにお蔵から出てきた幕末ごろの記録にいろいろ書かれていました。まあ、それにも「古くから」って書いてあるのですね(笑)。 ただ、歴史的な出来事なんかとも照らし合わせると今年の御柱で438年間も中⾦⼦が古御柱祭を担当してきたってことが最近解かってきました。約半世紀に亘り携わっている事実はすごいことだなあと思ってねぇ。
でも、そういう歴史を皆さんに意外と知られていません。6年に一度の隔年開催のお祭りなので結構⾊々トラブルもあったようです。

例えば下社では古い御柱を倒すのは神事としてはやっていなくて、最寄りの地区なんかが 請負作業としてやっていました。それで明治11年の御柱祭から下社に合わせて上社も同じように請負作業にして、その費⽤を諏訪の24か村で負担することになりました。中⾦⼦の⼈たちもどういう長い歴史のなかで⾃分たちが神事を担っているか解らないまでも、納得いかなかったのでしょうね。「信仰を重んじるべきところを俗世間の請負契約に任せるのはどういうことだ」ということで内務省に訴えるという騒ぎに発展したこともありました。その後、やむなく、しばらくの間、請負契約での実施という経過を辿りました。しかし紆余曲折を経て昭和12年(1937)暮れに神社側、氏子側双方で話し合い上社の御柱休めは旧習慣の形に戻すことになり、諏訪⼤社から御状「依懇請爾後復舊慣上社本宮御柱四本無償下附可致付遵守古例無懈怠可勤仕者也」というお墨付きもいただいて現在に至っています。

諏訪大社から八立神社宛てに送られた書状。
御柱休めを八立神社の氏子に任せるというお墨付きです。

岩波:

ただ、中⾦⼦側の中でも古御柱祭に対する議論が起こることはありました。
古御柱の八立神社への曳行時に、狭い村中を通るため⼤ 正 15 年(1926)に1⼈、昭和 25 年(1950)の時に1⼈が亡くなっています。それで昭和 31 年(1956 年)の御柱祭のときには戦後の民主化の流れもあり「中⾦⼦は死者を出してまで古御柱祭をやらなきゃいけないのか?」という議論になり、他の地区にも任せろという話にもなったようです。

もともと御柱祭や古御柱祭の時期は、4⽉から5⽉にかけての⽥畑の農繁期でしょ? 農村である中金子はこの時期にこういう神事に駆り出されるのは、ある意味苦役だったところもあったのかも知れません。言い換えれば後⽚付け的仕事ですから。でも明神様のことだからということで、今年の御柱で438年もやり続けてきたわけです。そして、今ではそれが⼀種の栄誉となり誇りにもなっています。

諏訪大社から八立神社宛てに送られた書状。
御柱休めを八立神社の氏子に任せるというお墨付きです。

438年の歴史を未来に受け継ぐ

——それだけ長い歴史があると、様式にもいろいろな変化もあったのでしょうか?

岩波:

昔は本宮の柱を4本、前宮の柱を4本、計8本とも全部を八立神社に持ってきていたようですが、元禄年間(1688 年〜1704年)に中⾦⼦の⼾数が減ってしまった時期があり、そのときから前宮の御柱は御柱休めの儀式はやるけれど曳行や払い下げを受けるのは別の地区になったという記録が残っています。それで、現在は本宮の4本だけを八立神社に曳行して、前宮の御柱からは御幣だけを八立神社に持ってきて神事を執り行っています。
曳⾏⽅法も変わりました。前宮から中⾦⼦まではけっこう距離がありますが、宮川の直線以前の文化4年(1807)までは宮川という川を利用して上流から御柱を流せば下流の中⾦⼦の八立神社で引き上げることができました。現在では道路が整備され、また宮川の流路や構造も変わったので陸路を運ぶようになりました。陸路で運ぶようになってからは⾺3匹で御柱を曳いたという記録もあります。 ⾯⽩いのは、宮川の流路が変わってからもしばらくはかなりの距離を陸路で直線化された宮川までわざわざ古御柱を運んでそこから流していたという記録が残っています。宮川が遠くなってしまったら流す意味はないのに、同じ方法で続けていたんです。毎年やるお祭りなら、都度反省点が出てきて、改善され変化していきますが、 6 年に1度だと担当者は都度全員代わり初体験となるので、まずは「前と同じことをやると間違いない」と考えるわけですね。 また何か理由があって⼀時的に変更したつもりのことも、6年経つと変更理由がわからなくなっていたりする。それで、本当は元に戻していいことなのにそのままそれが続いていってしまうということも沢山あると思います。

新しく建てられた御柱の「御柱固の儀」も中金子のお役目のひとつ

——みんな前回のことを忘れてしまっていたりしますもんね。

岩波:

6年というのは絶妙な間隔ですよね。悪い言い方をすればなかなか変化ができない。一方で、だからこそ古い祭りの形を温存することができたとも言える。御柱祭は縄文時代からの形態が残っているなんて言われたりもしますから。

——6年という間隔がうまく機能してきたのですね。

岩波:

よくハレとケって⾔いますよね。ケという⽇常が続いていくとケが枯れてくるんで す。それをケ枯れ(気枯れ)っていうわけ。それで元気をもらうためにハレという特別の機会の御柱祭というお祭りをやって、元気をいただき、またケという日常に戻すという循環を繰り返してきたわけです。
諏訪(高島藩)は百姓⼀揆っていうものがなかったといわれています。不平不満があってもそういう日常サイクルの中での溜まっていたストレスを御柱祭で発散していたのかもしれないね。

そして時代とともに経済や世情が安定してくると、ハレの側⾯がより大きくなってきているというのは感じますね。もともとは苦役の⼀種であったであろう中⾦⼦のお役⽬も、他地区の方から⾒ると晴れがましいものと思われるようになった部分も多々あると思います。なので、⾃分たちとしてはそんな意識はなかったけれど、外からは中⾦⼦は特殊なところだと⾒えることもあります。ただ、そこには438年間続けてきた裏付けがあることもわかったので、今後はそれを⾃覚してやっていっても良いのではないでしょうか。外に向けては⻑い間古御柱祭をやってきたという事情を知ってもらいたいし、内に対してはこういう歴史があるものだからきちんとやらないといけないよと伝えたいと思っています。長い間に築かれた伝統を⼤事にして今後も続けていってもらいたいと思いますね。

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