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御柱祭の氏子たち

Vol.2

地域の絆がつなぐ伝統技術
薙鎌をあずかる誇りにかけて

山田金山講 薙鎌の会
(茅野市)

柱祭で使う柱を決める「見立て」。その神事で木に打ち込まれる薙鎌は、⻑い歴史の中でその姿を変えてきました。現在、謎多き薙鎌を作るのは茅野市玉川の山田地区にある山田金山講薙鎌の会のみなさん。薙鎌の復元と継承にかける思いを、山田金山講 薙鎌の会の両角金福(かねひろ)さん、本木政明さん、田中啓吾さんに伺いました。

江戶時代から
受け継がれる
信州鋸の技術と伝統

——山田金山講というのはどういうものなのですか?

両角金福(以下、両角):

「山田金山講」というのは山田地区の鋸鍛冶衆の集まりの名称です。 もともとこの地区には 35 件くらい信州鋸(しんしゅうのこぎり)を作る家があった。信州鋸というのは、江戶時代に生まれたものです。1805 年(文化 2 年)に江戶から諏訪・高島 藩へ藤井甚九郎さんという鋸鍛冶さんがやってきて鋸を作り始めた。その人が育てた 7 人 の弟子がその後指導者になって、徒弟制度によりこの土地に根付いていったのが信州鋸です。 山田金山講のあるこの地域は山間で農耕地が狭く、冬の仕事が少ないということで副業として信州鋸づくりが広まった。でも、時代とともに建築様式も変わったし電動工具も出てき て衰退してしまった。現在では信州鋸として伝統を継承しているのは私を含め 2 人だけです。

両角金福さん

——信州鋸にはどんな特徴があるのですか?

両角:

信州鋸の一番の特徴は、最初から最後まで責任持って自分の工房で作り上げたところ です。 日本で鋸の生産地として有名なのは、兵庫県三木市、新潟県三条周辺。ここが諏訪と合わせ て三大産地だったんですが、三木や三条では分業制が主流なんです。それに対して、諏訪の 信州鋸は焼き入れから目立て(刃を鋭くする工程)、銘を入れて完成させるところまでひとりの職人が一貫して行う。製品の責任を全部自分で負ってやっていた。
そうやってできた諏訪の鋸は、買ってすぐ切れて耐久性もあるってことで評判がよかったんですよ。

——両角さんはどうして鋸職人になられたのですか?

両角:

親父が鋸職人でしたから。俺は⻑男は跡を継がなきゃという気持ちがあった。この地区は鋸職人が多かったし、抵抗もなかったですね。 当時は中学を卒業したらすぐに仕事をするのが普通だったんだけど、「これからの時代はいろいろ勉強しておいたほうがいい」と言ってくれる人がいて工業高校へ行きました。それで、高校卒業後の 1963 年(昭和 38 年)、18 歳で親父の弟子として仕事を始めた。それ以来だから、60 年くらいこの仕事をしています。

今では手引き鋸は一部の人しか使わないけれど、必要としてくれる人がいてくれる間は仕事をしたいと思いますね。 近いところでは⻑野県内や山梨、遠くは九州でも使ってくれている人はいます。数寄屋造を作る方や宮大工さんのように、昔ながらの建物を作る方「この鋸じゃなきゃ刻み(鋸やノミ で加工する作業)はできない」と言ってくれて、古い鋸のメンテナンスの依頼も全地方から来る。そうやって使ってくれる方がいるのは励みになります。

メンテナンスの依頼で届いた鋸。
⻑年メンテナンスを行いながら使い続けられているため、 刃の幅がかなり小さくなっています

諏訪大社の
神器であり、
御神体としても
扱われる薙鎌

——今みなさんが作っている薙鎌というのは、そもそもどのようなものでしょうか。

本木政明(以下、本木):

「皆さんが一番よく知っているのは、御柱の見立て(御柱にする木 を決める儀式)のときに使う場面じゃないでしょうか。このとき、御柱となる木に薙鎌を打ち込みます。

本木政明さん

両角:

御柱の見立ては2回あります。御柱祭の 2 年前に仮見立て、前年に本見立て。本見立 てが最終決定に当たる神事で、選んだ8本の木に宮司さんが薙鎌を打ち込みます。 薙鎌を打つことによって山の木が神の木になるんだと言う人もいますね。神の木として山 を降らせるにあたり、山の木を鎮めて、災いがないようにということで薙鎌を打つと私たち は聞いています。 以前は打ち込んだ薙鎌は伐採の時まで木にそのままにしてあったそうですが、現在は本見 立てが終わるといったん外して持ち帰るようになっています。過去には

打ち込んだ薙鎌がなくなっちゃったことがあったんだそうです。ありがたいものですからね。誰かがつい手を出してしまったんでしょう。 外したものはきれいに手入れをして、諏訪大社で保管しています。伐採の時にはもう一回打ち込みます。切った後は抜いて、また諏訪大社で管理されます。

本木:

この見立てですが、下社では薙鎌は使われません。2021 年の春に薙鎌を奉納したとき、宮司さんに「薙鎌が上社の神事でしか使われなのはどうしてですか?」と聞きましたが、 わからないと言っていました。歴史が⻑いものなのでわからないことも多いんです。

——いずれにせよ、御柱祭には欠かせないものなのですね。

本木:

はい。ですが、御柱祭だけで使うわけでなはありません。薙鎌というのは諏訪大社の 神器で、諏訪大社のいろいろな祭事に使われています。

両角:

今、薙鎌は山田金山講が納めていますが、皆さんが思っている以上にたくさん納めています。いくつかは諏訪大社さんが全国の分社へ御神体としてお分けしていると聞いています。神器であり、神さまそのものとしても扱われる、大変重要なものなんです。

——神聖なものなのですね。

両角:

そうです。御柱祭の関係でもいろいろな場面で使われます。例えば里曳きのとき。御柱を「お舟」が迎えにいくんですが、その「お舟」には2口(ふり)の薙鎌が打ってありま す。それと、御柱祭のタイミングで諏訪大社の宝殿の建て替えをしますが、その建前(上棟 式)のときに 1 口。珍しいところでは小谷村(⻑野県北安曇郡)の大宮諏訪神社にも諏訪大社の薙鎌を使った「薙鎌神事」というのがあって、諏訪大社の宮司さんが2口を持って出向 き、1 口は諏訪大社宮司さんの手でご神木に打ち込まれます。

本木:

小谷村の薙鎌神事というのは数え年で 7 年ごとに行うもので、境の宮と小倉明神と いう2つのお宮のご神木に順番に薙鎌を打つんです。御柱祭の前年、8 月の例大祭(最終日 曜日)の翌日に諏訪大社の宮司が出向いて、神事をします。こちらの御神木は生きている木 で、毎回同じ木に御神木に薙鎌を打つんですが、ここでは打った薙鎌はそのままにしています。だから、昔の薙鎌を見ることができるんですが、それを見ると今の薙鎌とは形や打ち方 が違うのがわかる。歴史のなかで形が変化しているんですね。 ちなみに、打った薙鎌は木の成⻑とともにめり込んでいきます。だから、もしかしたらずっと昔の薙鎌が木の中に何本か入っているのかもしれないとも言っていました。

鋸職人の技術を
受け継ぐ
地域の若手たち

——そんな薙鎌を山田金山講で作るようになったのはどういう経緯なのでしょう。

両角:

1990 年(平成 2 年)に、諏訪大社の加藤宮司(当時)から「鋸を作る技術で薙鎌を 復元できないか」とお話をいただいたんです。 この年の 9 月、諏訪大社で明治7年の綴りを整理していたところ、小谷村に送ったと思われる薙鎌の原寸図が見つかったそうです。先ほども話に出ましたが、薙鎌は時代によって少 しずつ形が違う。90 年当時使われていた薙鎌も、原寸図に描かれたものとは違う形になっ ていました。それで、加藤宮司から「明治 7 年の原寸図にあるような薙鎌をつくってもらえないか」という依頼をいただいたんです。以後、私たちはこの原寸図と同じ形の薙鎌を納めています。

本木:

御神体ですから、形はもちろん薙鎌という名前も諏訪大社で意匠登録をしてしっかり管理されている。そういうものを任されている責任は大きいですね。

平成 2 年(1990 年)に見つかった明治 7 年(1874 年)の薙鎌の原寸図。
現在はこの 原寸図に合わせて薙鎌をつくっている

——薙鎌の会はどういう経緯で生まれたのですか。

両角:

鋸作りの技術持っている職人ということで山田金山講にお話をいただいたわけですが、山田金山講も人が少なくなっている。何年かするうちに「作る人が年寄りばかりじゃあ 今後が困るんじゃないか」っていう話になったんです。そしたら山田地区の若い方たちが 「一緒にやらせてくれないか」と言ってくれた。それで、有志に入ってもらって、2009 年 に金山講の中に薙鎌の会というものを作ったんです。

本木:

お手伝いなんてさせてもらえるものなのかわかりませんでしたが、山田地区で薙鎌を作るようになったと聞いて両角さんに声をかけたんです。

両角:

もちろんメンバーはもともと鋸職人じゃないですから、最初はお手伝い程度だったんですが、コツコツ練習を続けてみんな職人レベルの技術を身に付けていきました。2021 年 の 4 月 28 日に諏訪大社に収めた薙鎌については、もう薙鎌の会のメンバーだけですべての製作ができるまで成⻑した。

本木:

お正直実際やるまではこんなに大変だとも思ってなかったし、やればやるほど奥が深い。でも大勢でやってきたからできたことです。1 人ではできない。

薙鎌の会の法被。背中の模様は古い鋸をモチーフにしたもの。
壷井は山田地区の祝神

両角:

鋸もそうですが、薙鎌作りにはいくつもの工程があります。全部をひとりでやるとな ると大変なので、3〜4人ずつのグループを作って、1 グループごとにひとつの工程を覚えてもらったんです。分業ですね。4 つか5つのグループが集まってひとつの薙鎌が完成する という形にしている。各グループが自分たちの工程を身につけたら、今度はその技術をお互 いに譲り合える。そうすればいずれ全員が全工程を習得することもできるわけです。

本木:

現在は月に1回は鋸作りの練習をしています。実際に薙鎌を製作する期間に入ると週2回とか作業しますね。諏訪大社に納める薙鎌を作るときは、仕込みから数えると2年間 はくらいかかります。

すべての工程で
職人の技が
求められる薙鎌作り

——薙鎌はどんな工程で作られているのですか。

本木:

薙鎌作りは、大まかに分けて 6 工程くらいあります。工程はどれも難しい。 例えば、焼き入れや焼き戻し。焼き入れというのは金属を熱して一気に冷ます作業で、これ をやると鋼が硬くなる。ただ、硬いだけだと力が加わったときすぐに折れたりしてしまう。 だから、焼き戻しという作業をやって「粘り」を出すんです。鋸って曲げてもしなって元に 戻りますよね。あれが焼き戻しによって生まれる「粘り」なんです。 この焼き入れや焼き戻しは温度管理が重要。薙鎌を作るときも鋸で培った温度管理技術を 応用しています。 それから、鉄板の厚みも変えています。薙鎌は大きい頭の方を薄くして、全体の重さのバランスがよくなるようにしています。このあたりも先輩たちが考えてくれました。くるい取りも大変ですね。焼き入れしたり焼き戻ししたりしてるとどうしても曲がったり湾曲したりする。それを直して平らにするのがくるい取りです。

月に 1 回は集まって技術を磨いています

田中啓吾(以下、田中):

くるい取りはまず見ることが難しい。素人がパッと見ただけだと 歪んでいるように見えない。微妙な細かい歪みを直すために、まずどこがどう歪んでいるか を見られるようにならないといけないわけです。

本木:

両角さんの工房に入ったとき、暗いと思ったでしょう? 窓が低い位置にあるんで す。これもくるい取りをするため。「くるい」は光の反射だけで見る。光ったところと影になった黑いところを、わずかな光の屈折だけで見極めるんです。そのために光が入る位置を 整えている。

田中:

そうやって歪みを見つけたとして、どこをどう叩けば直るかも経験がないとわからな い。叩いたことで逆に反ってしまったりする場合もあるので、いかに叩きすぎずに直すかっ ていうのが難しいですね。見る目と叩く技術の両方を持っていないとできない。レベルの高 いところを求められるんで大変ですよ。

鋸のくるい取り。こうして光に当てて歪んでいるところを見極めるのが第一歩

本木:

くるい取りをしたら、次は銑がけ(せんがけ)という作業。これは表面を一皮剥くような作業ですが、まず銑がけのための道具を扱うことが大変なんです。特殊な職人道具なの でそもそも売っている道具じゃなく、今工房にあるものを受け継いで使っている。しかも、 ちゃんと使えるようにするためには、自分で研げるようにならないといけない。包丁を研ぐのとわけが違って、本当に難しいんです。

両角:

最後は「銘切り」といって、タガネという金属の刃物を金槌で叩いて文字を切るんです。 銘を切るところは鋼をあらかじめ若干柔らかくしてあります。硬いとタガネが負けちゃう。 さっき話したように薙鎌は上の方が薄くて硬いんですけど、銘を切る部分は少し柔らかい。 でも柔らかいと白茶けて見えてしまうんで、色をきれいに見せるにはある程度硬いほうがいい。薙鎌の会のメンバーは、そういうところまで含めて我々の伝統技術を継承してくれています。

信州鋸の伝統技術が
薙鎌の中で
生き続けていく

——薙鎌の中に信州鋸の伝統技術が受け継がれているわけですね。

両角:

諏訪大社さんから「鋸屋さんで作ってください」と言われたからには、この中に鋸の最高の技術を込めなきゃ、と。そういう考え方で作っています。 薙鎌の会のメンバーは電気屋さんとか公務員とか会社員とか、他にちゃんと本業を持っている。そういう方たちが目的を持って続けるというのは大変なことですよ。 「御柱祭の一番大事なものを作る」「作ったものが諏訪大社の神事に使われる」っていうこ とでみんな気持ちの入りようも違うと思う。事故がないようにっていう気持ちを込めて真剣に作っているからね。 そして、神器作りを続けるためだけでなく、技術継承としても大事なものになりました。もしかしたらこの諏訪の地では、俺がやめれば鋸職人はいなくなるかもしれないけど、鋸を作 る技術は彼らの中に受け継がれて、薙鎌の中で生きていく。引き継いでくれた人たちは職人 のレベルにまで到達しようととても苦労してくれて、もう何も言うことがないレベルまで成⻑してくれた。もう俺が引退したって困らないですよ。

本木:

薙鎌は諏訪の神様のものだから丁寧にいい技術で作っていきたいと思っています。

田中:

私は最初入ったときはまだ 20 代で、「後継者になろう」なんて考えていたわけでもな かった。でも、だんだん工程を任されるようになると責任感というか、「受け継がなきゃいけない」って意識に変わっていきましたね。大変な面はありますけれど、こうやって薙鎌作りに関われるのはこの山田地区に生まれたから。やりたいと思っても誰でも薙鎌の会に入れるわけじゃない。自分たちが薙鎌作りに関わったり、技術を教えてもらえていることは幸せだと思います。

本木:

ただ、時間とともに自分たちの次の世代を考えないといけない立場になっていくので、真剣にやってくれる人を新たに入れていかなきゃならなくなるかもしれませんね。今も別に自分たちだけでやっていくってこだわっているわけではないんです。それよりもまず は、技術を受け継いでいかなければいけないという責任がある。

両角:

これもひとつの地域づくり。目的を持った人たちが集まって、一緒にやれて、地域が 盛り上がっていくなんて、後継者の方々には感謝ですよ。大変な仕事を継いで、地域をまとめてくれて。人が集まるっていうのは心を疎通する一番大事なこと。頼もしい、嬉しいですよ。

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