7年に一度の大祭、諏訪大社の「御柱祭」は、寅と申の年の4月と5月に行われますが、実はその後も御柱祭が行われていることをご存知でしょうか。地域の氏神様や道祖神ごとに行われる「小宮祭」です。なぜ諏訪の神社は小宮祭を行うのか、御柱の歴史はそれらを守り続ける諏訪の人々の歴史でもありました。今回はそうした歴史を踏まえたお話を、諏訪市八劔(やつるぎ)神社の宮坂清宮司に伺います。
諏訪湖畔にあった八劔神社とその村
——八劔神社をはじめ、諏訪地域の神社は諏訪大社と密接な関係を感じますが、実はそれがどういう関係なのか正確に理解している人は少ないのではないかと思います。
宮坂清宮司(以下、宮坂)
江戸時代まで、諏訪地域の神社は諏訪大社上社の末社、あるいは下社の末社という扱いでした。現在、上社の御柱を曳くところは上社の末社、下社の御柱を曳くところは下社の末社というわけです。ただし、諏訪市の上諏訪地区はちょっと違いますがね。
明治以降はその関係が廃止になり、全ての神社が国家管理されるようになりました。それぞれの神社が、村社、郷社、県社、官幣大社といった形で社格を持つようになり、神主さんも資格制度になります。資格を持った人が神社の祠掌になるわけです。諏訪地域の神社も諏訪大社から離れてそれぞれが独立した存在になっていきました。
戦後は宗教法人となり、それぞれの神社に代表役員の宮司が置かれるようになります。明治以降、諏訪大社との直接的な関係は薄れていったわけですが、諏訪の人が今でも自分たちは上社の氏子だ、下社の氏子だといった意識があるというのは、そういった歴史的背景に基づいているんです。
宮坂清宮司
宮坂清宮司(以下、宮坂):
江戸時代まで、諏訪地域の神社は諏訪大社上社の末社、あるいは下社の末社という扱いでした。現在、上社の御柱を曳くところは上社の末社、下社の御柱を曳くところは下社の末社というわけです。ただし、諏訪市の上諏訪地区はちょっと違いますがね。
明治以降はその関係が廃止になり、全ての神社が国家管理されるようになりました。それぞれの神社が、村社、郷社、県社、官幣大社といった形で社格を持つようになり、神主さんも資格制度になります。資格を持った人が神社の祠掌になるわけです。諏訪地域の神社も諏訪大社から離れてそれぞれが独立した存在になっていきました。
宮坂清宮司
戦後は宗教法人となり、それぞれの神社に代表役員の宮司が置かれるようになります。明治以降、諏訪大社との直接的な関係は薄れていったわけですが、諏訪の人が今でも自分たちは上社の氏子だ、下社の氏子だといった意識があるというのは、そういった歴史的背景に基づいているんです。
——そのような中でも八劔神社は「御渡り(みわたり/凍結した諏訪湖の表面に筋状の亀裂が入り迫り上がる現象。諏訪大社上社の建御名方命が下社の八坂刀売命に会いに行った際にできるものとも信じられた)」拝観の神事を担当していたり、特に諏訪大社とのつながりが強い神社というイメージがあります。
宮坂:
「御渡り」の神事については、八劔神社のある小和田地区の歴史が背景にあります。八劔神社と、隣にある甲立寺、そして高島村(現在の小和田地区)という集落は現在の高島城のあたりにあったんです。
当時は今よりもっと諏訪湖が大きく、高島城がある場所はもともと湖に突き出た島でした。つまり、高島村は諏訪湖に面した半農半漁村だったんです。
1590年、豊臣秀吉の家臣で築城の名手として知られた日根野高吉が諏訪に来て、高島村があった場所に築城することになった。それを機に高島村の人たちと神社とお寺は現在の小和田地区に移されることになったんです。
——湖畔の村が諏訪湖から離れた場所に移ったのですね。
宮坂:
もともと高島村の人々は諏訪湖で漁業をやっていたので、湖のことをよく知っていた。しかも、古い記録をみると旧高島村のあたりからよく御渡りが発生していたことがわかります。そういうことから江戸の中期、村はすでに湖岸から離れた場所に移っていたにもかかわらず、小和田地区の者が御渡りの拝見役を務めていた。それがそのまま今日まで続いているんです。湖の漁業権と拝見をつとめる地の利があったということでしょうかね。
2018年に発生した御渡り。
冬になると多くの人が「今年は御渡りが出るか」注目します
——そんなに昔から御渡りと関わってきたのですね。
宮坂:
御渡りそのものはもっと歴史が古いですよ。御渡りについての文書は江戸時代のはるか前、1443年から諏訪大社の大祝家に残っています。それから現在まで、578年間の御渡りの記録が残っています。これはすごいことですよ。
大変でも御柱祭・小宮祭をやりたい諏訪人たち
——諏訪大社と深い関わりを持っていた諏訪地域の神社ですが、そこで行われる小宮祭とはそもそもどういうものなのでしょう?
宮坂:
小宮祭は諏訪地域にある神社で行う御柱祭のことです。では、御柱祭とはそもそもどういうものか。
ほとんどの人が巨木を曳いてきて、途中で木落しや川越しをして、柱を建てるお祭りだと思っているでしょう。ですが、御柱祭の正式名称は「式年造営御柱大祭」といいます。「式年」というのは「年数を決めて行う」という意味で、御柱祭は干支の寅と申の年に行われています。「造営」とは社殿を作り直すことです。山から曳いてきた巨木で、玉垣、鳥居、門、それから宝殿という茅葺の建物などを新しく建て替えることを指します。そして古い宝殿から新しい宝殿に御神体を移す、これを「遷座」とか「遷宮」といいます。そして社殿の四隅に柱を建てる。御柱祭とは、社殿の「造営」「ご遷宮」「柱の曳き建て」、この3つから成り立っているお祭りなんです。
「遷宮」「造営」というのは諏訪大社だけではなく、例えば伊勢神宮では20年ごと、出雲大社でも60年ごとに行われています。日本の神祭のあり方として一定の年数を決めて造営遷宮を行うということはよくあります。
中世の頃は御柱祭のことを「造営」とか「造宮」と呼んでいました。「御柱祭」という言葉が出てきたのは江戸時代の後半になってからのことです。
——社殿の建て替えが本来の目的なのですね。
宮坂:
そうです。古くは信濃国全体から造営銭を集めて造営を行っていました。造営という目的が廃れはじめたのは戦国時代のことです。そして、戦乱の時代に廃れかけていたお祭りを、復興させようとしたのは武田信玄だといわれています。
江戸時代になると信濃国全体ではなく、高島藩内の人たちにより祭りを行うようになりました。高島藩は御柱奉行という役人を置いて、その指揮のもとに柱の曳行が行われたようです。
しかし長い歴史の中には当然お金や人手がない時代もあったでしょう。上社の本宮と、下社の春宮と秋宮には御宝殿がありますが、毎回3殿すべてを建て替えるのは大変なときもありました。明治時代は、3箇所のうち1殿だけ解体新築をし、後の2殿は茅葺き屋根の葺き替えをするという形で続けられてきました。現在では3殿とも解体新築するようになっています。
——では、小宮祭もそれぞれの神社の式年造営が始まりなのですね。
宮坂:
はい。それぞれの神社がいつから祭を行っていたかというのは一概にはわかりません。しかし、武田信玄や勝頼の書状に小宮祭にかかる経費についての記録がありますし、高島藩も小宮祭にお神酒を贈ったという記録がありますので、いくつかの神社については江戸時代あるいはそれ以前から御柱祭が行われていたことがわかります。
現在ではどの神社でもたいてい柱を曳いてきて建てるのが祭りの中心になっている場合が多いと思います。しかし中には特徴的なものもあって、茅野市にある御座石神社では曳いてきた柱をそのまま建てるのではなく、鳥居を作るんです。組み上がった鳥居に氏子が跨ってそのまま建てていく。こういう場面を見ると「造営」という祭りの本質が見えるように思います。
そのほかにも、諏訪市の胡桃沢神社は、神社を挟んだ2つの地区がお互いに「これはおらほ(我々)の神社だ」と言ってそれぞれが4本ずつ建てるので、8本の柱が建っています。また茅野市豊平の心光寺境内は湯神と水神が祀られているので、そこも8本建っています。面白いですね。
——造営というもともとの目的がいろんな形で残っているのですね。
宮坂:
小宮祭は柱を建てるだけになっているところが多いという話をしましたが、それでも神社の鳥居が古くなったり、痛んだりして直そうとなったときには、御柱の年にとなるんです。わざわざ平年にやろうということにはならない。そういうところにも「造営」の意識が残っているんじゃないかと思っています。
——それにしても、ただでさえ諏訪大社の御柱祭がある年に小宮祭もやるというのは大変なことですよね。
宮坂:
当時は諏訪大社の末社だったので諏訪大社のお祭りにならう、といったことだったのではと思います。大宮は大宮、小宮は小宮の御柱の意識で祭りを行う。
諏訪地域のおもしろいところは、大変でも御柱祭や小宮祭をやりたいと思う人が多い点です。歴史的に新しい集落や地区には普通、氏神様や神社はないんですが、「自分たちも小宮祭をやりたい」ということで道祖神を作ったり氏神様を勧請しようと町内会で社を建てたなんていう話もあるんです。宗教儀式が敬遠されがちな今の時代ではなかなか考えられないことですよ。自分たちの御柱祭をやりたいという諏訪人の考え方、気質というところでしょうか。
古来の形と壮麗さを兼ね備えた
八劔神社の小宮祭
——小宮祭は地域によって規模や特徴の違いもありますよね。八劔神社はどんな形でおこなっているのですか?
宮坂:
八劔神社では「造営」と「遷宮」そして「御柱を建てる」という諏訪大社と全く同じ形を今も続けているんです。
八劔神社は拝殿の奥に見えるのが本殿。本殿の右側には権殿という建物があります。この本殿を解体、新築するのですが、本殿を解体する前にはまず御神体を権殿に遷します。これを「仮遷座」といいます。それで大工さんが本殿を新しく作る。現在は千木(※ちぎ 屋根の破風が伸びた先が交差している部分)を取替えています。そして新しい方に御神体を遷すそれを「正遷座」と呼んでいます。
八劔神社の拝殿
——まさに御柱祭本来の形ですね。
宮坂:
ただそうは言っても、解体造営というのはものすごくお金がかかります。それで明治以降は社殿の千木を新しく取り替えることを造営とみなしているんです。
それでもそういった造営の古い形を残しているのは今では諏訪大社とここだけです。
——八劔神社の小宮祭は曳行なども比較的規模が大きいイメージがあります。
宮坂:
小和田では八劔神社の御柱の御遷宮を奉祝するため、氏子それぞれの地区で人形の飾り物を作る習わしがあります。ご遷宮のお飾りといいます。お祭りのための飾りは他の地区でも見られますが、小和田の人形飾りはとてもスケールが大きいんですよ。
かつての八劔神社の小宮祭での人形飾り。人の大きさと比べると、
とてつもなく大きな飾りをつくっていたことがわかります。(明治41年文覚上人那智の滝 荒業の場)
——こんなに大きな人形飾りをつくっていたのですか!
宮坂:
大きいでしょう。 当時は氏子が手づくりです。しかし、戦後は一旦これが途絶えてしまいました。復活したのは昭和49年(1974年)。その頃は小和田の湯小路というところに諏訪赤十字病院があって商店街で賑わっていたんです。人形を借りてきて病院入り口に飾っていました。
やがて病院が諏訪湖畔に移設されると商店街も活気がなくなり、資金の関係でしょうか、平成16年(2004年)で終わってしまい、平成22年(2010年)の小宮祭ではできなかったんです。僕はそうした伝統が途絶えてしまったことが大変悔しくて、前回の平成28年(2016年)になんとかこれを復活させたいと思ったんです。このご時世ですから御柱の奉賛以外に氏子からお金をいただくことはできませんから、なるべくお金のかからないように考え、有志者を集めて行いました。
そのときにのお飾りが「八重垣姫」です。江戸時代の後半に爆発的に人気を集めた近松半二の「本朝廿四孝」の中に八重垣姫と諏訪湖の御渡りに関する愛の物語があります。諏訪湖畔の石彫公園にも八重垣姫の石像がありますね。その一場面を表現しました。
宮坂宮司自ら手を加えながらつくった八重垣姫の人形飾り
——これを手づくりしたのですか!
宮坂:
ただ、「自分でひとりでもつくってみよう」と思ってましたけれど、結局ひとりでは到底できないんですよ。色々な人の知恵や力を借りてやりました。人形組み立て、衣装、法性兜、御渡、白狐、背景画など、仲間の協力あってのこと、嬉しかったですね。やってみると、昔の人が祭を奉祝するためにやっていた気持ちがわかった気がしました。一致団結してやるエネルギーと発想力、そして人々の絆。昔の人はすごいなと思いましたね。大きな飾り物は20メートルもあったんですよ。舟止を借景にして。
諏訪大社を敬愛する諏訪人気質
——御柱祭は諏訪の人々にずっと根付いてきたものなのですね。
宮坂:
生活のなかの伝統行事として受け止めているんですね。諏訪地域では御柱祭の年にはまずみんな神祭に集中しなければいけないということで、冠婚葬祭を控えたり、家の建て替えを避けたりする風習がある。畳の建て替え、障子の張り替えは前の年に済ませておく。もちろん御柱祭の年はお金がかかるという理由もあるのでしょうが、そうではなくって、神祭り・造営に集中しようという意識があるからだと思います。まずは神祭りを行い、その後であるならば同様な行為をしても良いと、そういう風に御柱祭というものが人々の意識や生活のサイクルの中に組み込まれているんです。
——御柱祭の年は御柱祭一色になりますからね。
宮坂:
御柱の年は、神社の小宮祭のほかにも、湯水神、道祖神、まき(同族を指す。諏訪では同じ姓をもつ親類の集まりとされることが多い)の御柱などもあり、その年の12月の初旬くらいまでは続きます。でも、これは平和な世の中だからできるんです。各地の神社や、道祖神やまきでもやるようになったのは戦後のことだと思います。もちろん、もっと古い歴史を持っている社や祠は、江戸の中頃から行なっていますね。
八劔神社内には小さなお社、分社もあり、
それぞれに御柱が建てられています
——形などの変遷はあれど、御柱祭に対する諏訪の人々の情熱は今でも強いですよね。
宮坂:
御柱祭の一連にまつわる歴史を見ていくと、やはりいろんな形で諏訪人気質っていうものを感じますよね。
高島藩主は今14代目です。初代藩主の弟の諏訪頼広という人が諏訪大社の大祝の家系で、そちらは諏訪氏と呼ばれています。大祝というのは生き神様で、8歳から15歳くらいの男の子が即位します。
武田信玄によって当時諏訪を治めていた諏訪頼重が滅ぼされた際、叔父の満隣が代わりにこの地を治めることになりました。その後、高島藩は江戸時代だけで10代続きました。この間、藩内で一揆が起こらなかったといわれています。それだけ平穏に治められていたんです。
これはひとつには諏訪の城主の家系を遡ると、諏訪の生き神様に行き当たるという認識が諏訪の人々の中にあったことも大きかったと思います。
またもうひとつには、藩主も地域への愛着が強く、村民を大事にしてたのではないかということです。天明の飢饉のときなどには、藩の備蓄米などを領民に配ったという記録が残っています。藩主家と人々はお互いに崇敬の念を持っていたんでしょう。
そういった意識から、たとえ大変なときでも、お諏訪様のためならば、御柱祭に喜んで奉仕する。そういう気質が諏訪の人にはあると思っています。